ユリノキと盛岡・岩手
明治期に日本へ渡ってきた「新しい木」。 ところがこの木は、新渡戸稲造・宮部金吾・宮沢賢治といった盛岡・岩手ゆかりの人物や、 日本初の高等農林学校の歴史と、思いのほか深く結びついています。 そしてこの木を生涯かけて増やし続けた人も、盛岡から出ています。
「償いの木」として — 毛藤勤治博士
盛岡のユリノキを語るうえで、どうしても外せない人がいます。 盛岡市に生まれた農学博士、毛藤勤治(もうとう きんじ)です。 宮沢賢治の母校でもある盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業し、 岩手県の職員として畜産・農政の道を歩みました。
転機になったのは、昭和30年代の全県酪農政策です。 乳牛の餌をつくる牧野を広げるため、県内のおよそ1万7千ヘクタールの自然林の伐採にたずさわりました。 そのことが長く胸に残り、「なんとかこれを償わなければ」という思いから選んだのが、ユリノキでした。 自著『ユリノキという木』のあとがきに、こう記しています。 盛岡の人びとから「宮沢賢治の母校並木」と呼ばれ親しまれていた岩手大学旧正門前のユリノキ並木と、 市内に点在する同世代のユリノキの大木に縁を感じ、償いの木はこれにしよう、とひとりで決めた——と。
発芽しにくいユリノキの種子と何年も向き合いながら、一万一千本あまりの実生苗を育てました。 昭和53年(1978年)には岩手県教育委員会を通じて県内の学校へ苗木を寄贈し、 昭和54年(1979年)には岩手緑化研究会を結成して会長を務めています。 こうした研究と普及の積み重ねにより、平成7年(1995年)、 緑化推進運動功労者として内閣総理大臣表彰を受けました。
平成元年(1989年)に刊行された『ユリノキという木 — 魅せられた樹の博物誌』は、 化石時代から北米の原産地、日本への渡来の経緯、そして栽培のしかたまでを一冊にまとめた、 ユリノキだけを扱う稀有な博物誌です。全国の植栽地のリストも収められています。 いま私たちが手にしているユリノキの知見の多くは、この一冊に負っています。
この会が引き受けようとしているのは、毛藤博士が始めた仕事の続きでもあります。 街に増やすところまでは、多くの先人が手をかけてきました。 わたしたちは、そこから一歩進めて「山に植える木」にするための材料を揃えていきます。
「宮沢賢治の母校並木」のこと
岩手大学の旧正門前には、かつて樹高25メートルほどのユリノキ並木がありました。 市民から「宮沢賢治の母校並木」と呼ばれ、盛岡随一の並木として親しまれた道です。 盛岡のユリノキは、大正の中頃に盛岡高等農林学校林科の小泉多三郎助教授(のちの盛岡市長)が 育てた苗木にはじまると伝えられます。
この並木は、昭和56年(1981年)8月の台風15号で1本が倒れたことをきっかけに、 旧正門ぎわの1本を残して伐採されました。根元の直径が130センチを超える木もあったといいます。 その出来事も、毛藤博士がユリノキの記録を一冊にまとめる後押しになりました。
ビクトリアロードの並木 — 新渡戸稲造の縁
盛岡城跡公園(岩手公園)の中津川沿いには、「ビクトリアロード」と呼ばれる小道があります。 盛岡出身の国際人・新渡戸稲造にゆかりの深いカナダ・ビクトリア市と、盛岡市の姉妹都市提携にちなんで名づけられた道です。 盛岡市の資料によれば、この道沿いには巨木となった37本のユリノキが立ち並び、年月を感じさせる存在感を放っています。
新渡戸稲造(1862–1933)は盛岡藩士の三男として生まれ、国際連盟事務次長を務めました。 1933年、カナダでの会議のあとビクトリア市で客死しています。 この縁から、昭和60年(1985年)に盛岡市とビクトリア市は姉妹都市となりました。 生誕の地・盛岡と、終焉の地・ビクトリア。その絆を象徴する道に、北米原産のユリノキが並んでいます。
「農学」でつながる人脈 — 宮部金吾と宮沢賢治
ユリノキは、農学・植物学の学校に好んで植えられてきた木でもあります。 植物学者・宮部金吾は札幌農学校の二期生として新渡戸稲造・内村鑑三とともに学び、「三秀才」と呼ばれた生涯の友でした。 宮部は北海道大学植物園の生みの親・初代園長として知られ、日本で最も古いユリノキの一つは、 彼が留学先のハーバード大学から持ち帰った種子に由来するとも伝えられます。
一方、盛岡には明治35年(1902年)に、日本初の官立高等農林学校として盛岡高等農林学校が創設されました(現・岩手大学農学部)。 宮沢賢治は大正4年(1915年)にこの学校へ首席で入学し、農芸化学を学んでいます。 札幌農学校から新渡戸・宮部へ、そして盛岡高等農林学校から宮沢賢治へ。 二重の「農学の糸」が、盛岡・岩手とユリノキを結んでいます。
近代都市づくりと街路樹文化
ユリノキが日本に渡来したのは明治のはじめ。新宿御苑(旧・内藤新宿試験場)に初めて植えられたと伝わります。 明治40年(1907年)には街路樹用に御苑のユリノキの種子が払い下げられ、全国の街路樹へと広がっていきました。 生長が早く、樹形が整い、黄金色の黄葉が美しい。近代都市の街路樹にふさわしい木として、各地で植えられていったのです。
現在、ユリノキは全国の街路樹として約10万本が植えられ、地域別では関東(52,645本)、東北(11,171本)に多く見られます。 盛岡でも、ビクトリアロードをはじめ、まとまった並木が市内の風景をつくっています。
| 観点 | ユリノキと盛岡・岩手のつながり |
|---|---|
| 場所 | 盛岡城跡公園(岩手公園)中津川沿いの「ビクトリアロード」に、37本の巨木の並木 |
| 人物① | 新渡戸稲造(盛岡生誕、ビクトリア客死)— 姉妹都市の縁、ビクトリアロードの由来 |
| 人物② | 宮部金吾(新渡戸の親友、北大植物園初代園長)— 日本最古級のユリノキの育成に関わったと伝わる |
| 人物③ | 宮沢賢治(盛岡高等農林学校=現・岩手大学農学部に学ぶ)— 農学都市とユリノキの親和性 |
| 人物④ | 毛藤勤治(盛岡生まれ・農学博士)— 一万一千本余の苗木を育て、県内に広めた。『ユリノキという木』の著者 |
| 並木 | 岩手大学旧正門前の「宮沢賢治の母校並木」。大正中頃の小泉多三郎の苗木にはじまると伝わる |
| 近代化 | 明治の街路樹文化。東北の街路樹ユリノキは11,171本(令和4年3月末時点) |
| 自然の恵み | 蜜がよく出る木。「ハンテンボクのはちみつ」など、養蜂・地域ブランドへの可能性 |
※ 一部の伝承(宮部金吾とユリノキの種子の来歴、ビクトリアロードの命名の経緯、盛岡のユリノキの由来など)には諸説があります。 主な参照先:林野庁「平成7年 緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰 受賞者名簿」、 毛藤勤治『ユリノキという木 — 魅せられた樹の博物誌』アボック社出版局(1989年)、 『田園都市の緑化』岩手県緑化推進委員会盛岡地区協議会(1988年)、 盛岡市「史跡盛岡城跡 保存管理計画」関連資料、盛岡市「姉妹都市ビクトリア市」、 国土技術政策総合研究所資料 第1246号「わが国の街路樹Ⅸ」、新宿御苑(一般財団法人国民公園協会)、 北海道大学総合博物館、岩手大学農学部附属農業教育資料館 ほか。